あたりまえに感謝

 「じゃあ、気をつけてね。またねー」こんなふうに赴任先へ戻る夫の車を見送って十数年。一緒にいると楽しいけれど、一人の時間もこの上なく嬉しいというのが正直なところ。でも、3月いっぱいで夫は退職して我が家へ戻ってきます。ケンカしないように気をつけなければと思いながら家に入ろうとしたら、「村松さん、久しぶり…」と声をかけられました。振り向くと傘を差しマスクをした女性が立っていました。挨拶を返したものの、誰だかわかりませんでした。名前を言われて驚きました。いつもニコニコして良妻賢母という言葉がぴったりな方なのに、どことなく漂う空気が違うのです。

 「なんだか元気がないようですが……?」と私が言うと、「じつは、主人が亡くなったの。私、もう生きていたくないんです。死んでしまいたいと毎日思いながら暮らしているんです」そう言って泣き出しました。温和な人柄からは想像できないような冷たい話し方でした。笑うことを失った人の顔は、言い知れぬ怖さがあると思いました。

 長年勤めてきた会社を退職し、これからは二人でたくさん旅行しようと楽しい計画を立てていた矢先、風邪が治らないので病院に行くと、白血病であることがわかり余命宣告されたのだそうです。治療法がなく、ひたすら死を待つ入院生活……。それを受け入れることができず、あらゆる試みをしたそうです。一縷の望みもない闘病は、地獄のような苦しみだったでしょう。看護師さんが「奥さん、大丈夫ですか?」と、折にふれて優しい言葉をかけてくれたことが救いだったと、おっしゃいました。

 長い間そばにいた人がいなくなってしまったら、生きる希望を失ってしまうのも仕方ないのかもしれません。私も母を失った時、そう感じました。「生きていても仕方ない」と何度もつぶやくその人に、「頑張ってください」という言葉はかけられませんでした。何度も家に招き入れたのですが、固辞なさるので、雨の中一緒に泣きました。

 「主人のこと、初めて他人に話しました。村松さんが初めてです」
 「死にたいなんて言わないでください。ご主人は生きています。心の中に、ずっと、ずっと生きています。死にたいなんて言ったら、ご主人は悲しみます。周りの人にご主人のことをたくさん話して、悲しい!って口に出せば、少しは心も軽くなります。必ず元気になれるから。」彼女は頷いて、立ち去りました。

 そこにいるのが当たり前の人がいなくなってしまったら……。一緒に暮らし始める夫に優しくしてあげようと思いました。

掲載:「月刊公民館」(全国公民館連合館)2016年5月号