とうきょうボクさん

 東京駅で、忘れられない思い出があります。大学生の時、故郷へ帰る友達を見送りに東京駅に行ったときのことでした。友達が飲み物を買いにいっている間、私はひとりでベンチに座っていました。するとどこからともなく、がっしりとした男の人がフラフラとやってきて、私の目の前の床に、こちらを向いて腰をおろしました。片手にコップ酒を持っています。私は思わず目をそらしました。目を合わせまいと努力しました。でも、私との距離はわずか1メートルほどしかありません。(私、なにか悪いことしたかしら?この人の勘にさわることしたかしら?早く向こうに行ってくれないかな……。)怖いなと思ったその瞬間、目があってしまったのです。

 「……の、のみすぎると、体によくないですよ。」

 なにか言わなくちゃ!と、思った瞬間、私はひきつった笑顔でそう言っていました。「うるせぇ、よけいなお世話だ!」という、ガラガラ声がかえってくるかと思ったら、表情の読めない顔で私をにらみ、上着の内ポケットに手を入れてモソモソし始めました。(ピストルでも出されたらどうしよう!)もたつきながら、「ほら、あんたも飲まねえか。」なんと、ワンカップ大関が出てきたのです。私が断ると、ふたをパカッとあけて自分で飲み始めました。(あ〜あ、さっきの飲みかけがまだ残っているのに。)

 「あんた,俺のこと知ってるか?」
 しわがれ声の思いがけない問いかけに、私は「いいえ。」と、こたえました。

 「人呼んで『とうきょうボク』っていうんだよ。」
 「はあ……?」
 「『とうきょうボクさん』を知らねえのは、もぐりだぜ!」

 そのあまりにも毅然とした言い方に、ふきだしそうになりましたが、それをこらえて
 「ボクちゃんなんて、かわいらしいニックネームですね。」と、言ったら、
 「『ボクちゃん』じゃねえ、『ボクさん』だ!ほら、見てみろ。」

  そういって、胸ポケットから身分証明書のようなものを取り出して、見せてくれました。顔写真の横に、「朴○○」という名前が書いてありました。

  「俺は、半島から海を渡ってやってきたのさ。一発あててやろうと思ったのに、裏切られて、帰るに帰れねえ。」
 「ご家族は、向こうにいらっしゃるんですか?」
 ボクさんは、大きくうなずきました。
 「会いたいでしょう?」
 「会いたいけど、帰れねえ。ひと仕事するまでは帰れねえ。もうすぐひと仕事するから。」
 顔も手も汚れて、着ている物も決してきれいとはいえません。
 「今、どんな仕事をしているんですか?」
 怖そうだから話したくないと思ったのに、いつの間にか私は、ボクさんに興味を持ち始めました。

 東京駅には、さまざまな事情で家を出てきた人達が集まり(今でいうホームレス。当時はそういう言葉はありませんでした)、ひとつの社会ができていて、東京駅で暮らし始めて何年になるか、それまでどんな仕事をしていたかで順番が決まるというのです。ちなみに大学教授が一番で、次が銀行員、そのあと大手企業や公務員と続き、ボクさんは上から7番目ぐらいにいました。上位の人ほど発言権があり、仕事場も寝る場所も上から順に決められているのだそうです。仕事は、読み終わった雑誌などを集めて業者に売るのですが、発売当日に捨てられた漫画などが、高値で取引されるそうです。発売日より早く発売される店や、雑誌や漫画が特に多く捨てられている所など、ボクさんは長年の経験でよく知っていると、得意気に胸をはりました。新しい仲間がやってくると、残り物のお弁当や、大事にとっておいたお酒を持ちより、宴会も開くのだそうです。秩序さえ守っていれば、東京駅は生活に困らない、いいところだというようなことを話してくれました。

  いつの間にか、友達もボクさんの話に耳を傾けていました。遠慮のない視線をあびながら、私達はジュースとお酒で乾杯しました。

  「ボクさんが、一日も早く家族と会えますように!」
 私がそう言うと、ボクさんの目に涙があふれました。思いがけない涙に、私も胸が熱くなりました。ボクさんは涙をふいた手で握手を求めてきました。大きくてあったかい手でした。

  「あまり、飲みすぎないようにね。体をこわさないように。」と、私が言うと、「そんなことを言ってくれたのは、あんたが初めてだ。」そう言いながら、ボクさんは何度も涙をふきました。

 その時、ふたりの鉄道警察官が、「また、こんなところで飲んで!」と、走ってきました。オッ!と振りかえった後ボクさんは、「もうすぐ俺の顔が忘れられなくなるぜ。元気でな。」と片方の唇の端をあげて笑うと、険しい表情になり「はなせー、バカ野郎!」と叫びながら、両腕を抱えられて遠ざかっていきました、ふたつの飲みかけのお酒をしっかりと持って。

 それから一週間程したある日、NHKの「7時のニュース」を見ながら家族で夕飯を食べていました。アナウンサーの「『とうきょうボクさん』こと本名、朴○○」という声に、何気なく画面を見たら、あの、東京駅で握手した朴さんの写真が大きく写っていました。なんと、暴力団事務所に押し入り、組長を殺してしまったというのです。私は「えーっ!!!」と声をあげ、お箸を落としそうになりました。どうして! なぜ? 複雑な気持ちで画面を見ていました。あれほど家族に会いたがっていたのに、会えなくなっちゃったじゃない! ひと仕事って、このことだったんだ。あの時、ボクさんの心の中にはもう覚悟ができていて、だから家族の話で涙が溢れたのだと思いました。

 もうボクさんの顔は忘れてしまったけれど、握手した手のぬくもりは覚えています。今ごろ、どうしているかなあ……。